ESRS S1「自社の従業員」実務ガイド:2026年CSRD適用企業のための開示要件と人的資本データ整備
EU子会社を持つ日本企業のサステナビリティ部門が、CSRD(企業サステナビリティ報告指令)対応で最初にぶつかる壁の一つがESRS S1「自社の従業員(Own Workforce)」です。多くの担当者の初見の感想は「これはサステナビリティ基準というよりHR監査ではないか」というものですが、その認識は正しく、しかも意図的にそう設計されています。
ESRS S1は、サステナビリティ部門と人事部門が初めて同じデータ構造・同じ監査証跡・同じ開示文言を共有することを強制する基準です。波1報告企業の多くにとって、気候変動(ESRS E1)の次に重い作業負荷をもたらすのがS1です。
本稿では、2025年11月のEFRAG改正案を踏まえた現時点でのS1の要求事項、2026年報告で利用できる移行救済措置、そして日本企業の人的資本データ基盤との接続ポイントを整理します。
ESRS S1は何を求めているのか
ESRS S1は「自社の従業員」を対象とした基準です。ここでいう従業員には、雇用契約に基づく従業員に加えて、企業のために主に働く自営業者および派遣会社経由の労働者(「非従業員(non-employees)」)が含まれます。一方、サプライヤーの工場で働く人々はESRS S2(バリューチェーンの労働者)の領域であり、S1には入りません。
開示は以下の三つのテーマに整理されています。
- 労働条件 — 雇用の安定、労働時間、適正賃金、社会対話、結社の自由と団体交渉、ワークライフバランス、労働安全衛生
- 平等な扱いと機会均等 — ジェンダー平等と同一労働同一賃金、研修と能力開発、障害者の雇用と包摂、暴力・ハラスメント対策、多様性
- その他の労働関連権利 — 児童労働、強制労働、適切な住居、プライバシー
これらは17の開示要件(S1-1〜S1-17)に展開され、ESRS 2「全般的開示」のガバナンス開示およびIRO(インパクト・リスク・機会)開示と連動します。
2026年改正の要点:データポイント61%削減と「重要性」の再確立
2026年報告の準備において、最も重要な情報源は2025年11月のEFRAG ESRS S1改正案 V1.5です。改正版は当初版から約61%のデータポイントを削減し、比較可能性が高い項目に集中させています。
実務上重要な変更点は次の三つです。
重要性(マテリアリティ)の再確認。 当初版では、自社従業員に関する一定の情報は事実上「常に開示」とされていましたが、改正版では自社従業員が重要性評価で重要と判定された場合にのみ適用されます。S1-5およびS1-7の指標は「上位10カ国」かつ「1カ国あたり50名以上」のデミニミス(最低基準)で範囲が限定されます(EFRAGドラフト)。
非従業員開示の圧縮。 当初版のS1-6で求められていた非従業員の詳細な区分開示が、「非従業員がビジネスモデルにとって不可欠である場合」に限った単一の重要データポイントに簡素化されました。
適正賃金の方法論が明確化。 改正S1-9はILOの生活賃金推計原則を基礎に据え、EU域外についてはニつの方法論からの選択を認めますが、採用したベンチマークの開示を必須とします。これは大きな改善で、従来は「適正」の意味がEEA外では事実上preparer任せでした。
採択時期は2026年央、強制適用は2027年1月1日以降開始の事業年度から、2026年については任意の早期適用が認められる見込みです。
2026年に使える移行救済措置
EU Omnibus指令と欧州委員会の「クイックフィックス」委任法に基づき、波1報告企業(FY2026開示)では以下のESRS S1開示が省略可能です(BDOによる委任法解説に基づく)。
- S1-13 労働安全衛生の段落40(d)・40(e)の指標、およびS1-13内の非従業員データポイント全般
- S1-14 ワークライフバランス指標(家族関連休暇の取得状況)
- 従業員750名未満の企業は、初年度ESRS S1全体を省略可能
- 750名超の企業の初年度:非従業員データ、障害者包摂、労働安全衛生の一部、ワークライフバランス、EEA外の団体交渉・社会対話、社会保障カバレッジ、研修と能力開発
ただし、これらは「使えるから全部使う」ものではありません。どの救済措置を発動したかは、データ整備の遅れの自己申告に等しく、監査人は翌年に向けたギャップ閉鎖計画の有無を確認します。
日本企業特有の論点:人的資本開示との二重対応
日本の上場企業は、有価証券報告書において人的資本開示が2023年3月期から義務化されており、女性管理職比率、男性育休取得率、男女間賃金格差の3項目が既に強制開示項目です。SSBJの基準書はS1(一般要求事項)・S2(気候)を先行採択し、社会領域は今後の論点として残されています。
ここで実務上の課題が二つ生じます。
指標の定義の二重管理。 日本の人的資本開示は厚生労働省の「女性活躍推進法」「次世代育成支援対策推進法」関連指標の集計ロジックに基づき、ESRS S1はEU/EEA基準と国際比較性を前提とした集計ロジックに基づきます。例えば男女間賃金格差は、有価証券報告書では年収ベース・正規/非正規/全労働者の3区分、ESRS S1-16では総時間給ベース。同じ「賃金格差」というラベルで違う数値が必要になり、社内で説明できる定義書の整備が不可欠です。
EU子会社の集計範囲。 改正S1の「上位10カ国・1カ国50名以上」のデミニミスを適用するのは連結ベースですが、日本本社の人的資本データはEU子会社まで含めて統合されていないケースが多く、EU側で別途集計するか、グローバル人事システムへの移行を進めるかの選択を早期に決める必要があります。
データ基盤の典型的な失敗パターン
ソーシャスがCSRD準備中の企業からS1ドラフトのレビューを受ける中で繰り返し見る4つの失敗パターンを紹介します。
パターン1 — HRISのカバレッジギャップ。 複数拠点・複数買収企業を抱える企業では、HRシステムが地域・法人ごとにバラバラなことが多く、ESRS S1が要求する「財務諸表上の従業員数との照合可能性」が満たせません。Workday、SAP SuccessFactors、ローカル給与計算ソフト、Excelが混在する状態では、開示の前に照合の問題があります。
パターン2 — 非従業員の死角。 派遣会社経由の労働者や個人事業主への発注情報は、人事ではなく購買部門が保有しています。改正S1-6では「非従業員がビジネスモデルにとって不可欠か」の判断が求められますが、その判断には人事・購買・法務が共通の「非従業員」定義を持つ必要があります。
パターン3 — 方法論なしの適正賃金評価。 「全従業員が現地最低賃金以上を支払われている」という単線の記述で適正賃金開示を済ませている企業は少なくありません。改正S1-9ではこれは通りません。Anker方法論、WageIndicator、ILO原則のいずれを採用したかを明示し、各重要管轄でのベンチマーク値を開示する必要があります。
パターン4 — インシデント分類の揺れ。 S1-13の労働安全衛生指標(100万時間あたりの事故件数、損失日数)は拠点ごとに分類定義が一致している必要があります。本社が「ヒヤリハット」を含めず、工場拠点は含めるといった揺れは、保証人が必ず指摘する論点です。
AIが変えるS1ワークフロー
サステナビリティ部門4〜8名でこれらすべてを手作業で集計するのは、規模の経済の限界を超えています。AIがこのワークフローで効くのは、地味な作業 — HRIS APIからの構造化データ取得、社内職位タクソノミーからESRS互換区分へのマッピング、財務諸表ヘッドカウントとの照合、欠損・異常値フラグ — の部分です。
Socious Reportは、HRIS・給与・安全衛生インシデント報告システムと連携するESRSデータ取込レイヤーを通じてこのワークフローを自動化し、すべての数値開示が原ソースレコードに遡れる監査証跡を生成します。保証人が実際に求めているのはPDFではなく監査証跡です。
環境領域の詳細はESRS E1気候変動開示ガイド、データポイントの全体像はESRSデータポイント・マッピング・ガイドを参照ください。
今後60日でやるべきこと
FY2026を波1で報告する日本企業のEU子会社・親会社のチェックリストです。
- 開示対象を当初2023年版ESRSではなく改正データポイント・セットで再確認する
- どの移行救済措置を使うか明示的に決定し、その理由を文書化する
- 適正賃金の方法論を今決める — 第三者ベンチマーク提供者への依頼は最も時間がかかる外部依存
- 9月までにHRISヘッドカウントと財務諸表ヘッドカウントの照合を立ち上げる
- 上位10カ国・デミニミス閾値を早期に確定する — 期中の範囲変更は高コスト
- 日本本社の有価証券報告書の人的資本開示指標と、ESRS S1指標との定義差分一覧を作成する
ESRS S1はコンプライアンスとオペレーションの現実が最も直接にぶつかる基準です。1サイクル目を順調に終える企業は、サステナビリティ部門が大きい企業ではなく、人事・購買・サステナビリティのデータ連携を「開示締切に追われて」ではなく「事前に」構築できた企業です。
Socious ReportがどのようにESRS S1の従業員データを取り込み、監査対応の開示を生成するかをご覧になりたい方は、デモを予約、またはCSRD準備状況アセスメントをご請求ください。